プロセスファシリテーション第2回

素晴らしい季節になった。


一番好きな季節は耳が痛くなるような厳冬で、次に好きなのが汗をダラダラと流す夏だ。
…二輪に乗るようになってからは、風薫る春と、紅葉の秋も好きになったが、冬夏には劣る…
だが、この季節だけは「空気に金木犀が香る」というただ1点において、1〜2週間限定で大好きなのだ。


嗅覚というのは割と原始的な感覚ではないかと思うが、こんなにデジタルでフェイクな私も、意外と鼻が利く。(文字通りの意味で)
たぶんミネラルやビタミンなどの栄養素の取得と関係しているんじゃないかと思う。


西荻窪から三鷹まで歩いて帰ってくる途中に、匂いの気になるレストランが3軒ある。


五日市街道と中央線が交差する高架下につるかめランドというスーパーがあるのだが、その手前の角にあるカフェ。
看板が無いか、ちゃんと見たことが無いので店の名前はわからないが、たぶんタコライスが売り物のカフェ。
この店が、脇を通ると厨房からの排気が実に良い匂いなのだ。


もう1軒は、割と有名な吉祥寺の油そばの店「ぶぶか」http://r.tabelog.com/tokyo/A1320/A132001/13015986/
ここも通る度に香ばしい調味料の匂いがする。


逆に勘弁して欲しい匂いがするのが「武蔵家http://r.tabelog.com/tokyo/A1320/A132001/13005872/


この3店舗、どこも1回だけ入ったことがあり、それぞれそれなりに美味しい(逆に言えばそれほど凄く美味しいわけではない)店だった。
が、この厨房からの匂いから判断するに、厨房で排除されて外に出ている部分までが美味しい匂いがするという意味では、先の2店舗はなかなか上等なのではないかと思う。


前置きが長くなったが、今日はプロセスファシリテーションプロジェクトの2回目だった。


今日の場は、先に進もうとする力と、その場に留まろうとする力が拮抗して、場のエネルギーが何処にも行かないことが起きた。
つい最近、FAJのある小さなミーティングでもこれが起きたなぁとデジャブ。
PFPのクラスでは「ここにエッジがある」と扱われた。結局どんなエッジがあったのかは追求されなかったけれど。


「安心安全の場ではない」という指摘が出た。
私は勝手に安心安全の場だと思いこんでいたので、そういう指摘のある場で裸踊りをする気でいたのだと、ちょっとビックリした。
何をもって「安心安全」を測るのかというのは、卵と鶏の話になりそうだが、どれだけ先に脱ぐ人がいるかどうかだと思う。
ただ、黙って脱いでしまっては只の変な人なので「安心安全の場だよね」と言葉に出したり確認したりするプロセスも大切なのだろうなと…無言実行ではなく、有言実行が必要なのだろうなと思った。


クラスに参加することで、私にも期待していたプロセスが少しずつ起きているらしい。
そんな風に指摘された。ならば僥倖である。


少なくとも。
今まで「自分または自分の周りに、手に負えない問題がない」というのは、何かおかしいと頭で推測していただけだったが。
「それは、問題が起きない程度にしか、私が誰とも関わっていないということの証明ではないか」と…微妙にまだ頭で考えているレベルではあるが気づいた。


そう思えば、これほど「信じている」または「信じることから始まる」と語っている私は、実は誰のことも本当には信じていないのではないかと…これまた頭で考えたりする。
期待に応えることは大好きだが、誰かに期待することはあまりない。実に「ゲシュタルトの祈り」な姿勢で生きてきている。


「結婚とか興味ないんですか?」と問われて「そうですね。今は自分のことで精一杯ですね」と答えた時。
何年も後になって気づいたけれど、あの時、問うた相手は私に気があったのかも知れない。
気づかずに切り捨ててしまったけれど。
(プロセスファシリテーションの世界では追いやって無かったことにしてしまうことを周縁化と言うそうだ)


今年のトルコ旅行では、常に友人達と一緒に移動していたのだが、ふっと一瞬だけ1人を見失った。その一瞬の間に友人はパスポートをすられてしまった。
上海で地下鉄カードを購入しようとして、同行者を置き去りにしてあちこち聞き回っていたら、その間に同行者の背中のバッグからデジカメがすられてしまった。
以前、両親とベルギー旅行をして、彼らを置いて1日だけ早く自分だけ帰国したら、母がパスポートと財布をすられてしまったことがあった。
私が一緒に居て見張っている限り、そんな思いはさせないのに。と思った。
これだけ数え切れない回数、1人で海外にて色んな場所で色々過ごしてきて、何故か自分だけは些細な被害にすら遭っていないということに気づいてしまった。


以前、三輪の大神神社の手水舎で、私が革ジャンをなんかの拍子で軽くばさりと着直した時、その勢いで何か黒い物が落ちたのを見たと友人に言われた。
落とし物だと思って地面を見たが、何も落ちていなかったと。
私自身はそんな仕草をしたことすら覚えていなかったが。


祓う力が強いのだろう。
悪しきものだけならまだしも、良きものも多少祓われてしまっているのかも。
少し、この磁場のようなものを、自分で制御できれば良いのだが。


人が挫折を通じて大人になるならば。私はまだ大人ではない。
人が痛みによって連帯しあうならば、私は誰とも繋がることができない。
愛が自己愛、同性愛、異性愛という形態で成長していくのならば、私は自己愛で成長を止めたままである。


…そろそろ挫折を知ることが出来るかも知れない。
44歳にして、漸く、自分がスティーブン・ジョブスでも、ビル・ゲイツでも無かったことに気づいてきたところだ(笑)。
ならば、そろそろ地に足が着くのかも知れない。磁場が弱まるかも知れない。


…しかし、結局の処、別に挫折など知りたくもないし、真剣に誰かと繋がりたいと思っているわけでもないのだ。